2006年の祈り

家を出てから4ヶ月くらい、毎月3日間身動き出来ないくらいに寝込む、
というのが続いて、何とか起きれるようになって這うように朝ミサに行った
後に、書いた言葉です。


今よりずっと絶望していて、かなり祈ってたので、内容ががっつり
十字架です。

この言葉が必要な時もあったし、またいつか役に立つかも知れないので、
ここに書いておきます。


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何も恐れずに
神(だけ)を信じて

愛だけになる。

自分を小さな力だとは
思わない。
なぜなら…





どんな祈りも
願いも

あの光には
流れ出る血には
痛みには
決して かなわない。



あの死ぬ寸前の身体で、
恐怖と痛みと苦しみの現実の中で
それでも 愛を受けとめる






それは 人間の体で
出来る事だろうか。

神の愛を知るために
私の力を捨てる。今持っている
何もかもを。

そうしなければ 神の声を聞き
神の姿を見ることは できない

求める力さえ神のものだから、
全てを愛に変えていかなければ



神に出会えば 私は消える。 闇が。
私でありながら 私を愛せるようになる。

影をも愛す 間違いも怒りも誤解も
全てを包む 痛み





神ならば 私を愛せる。

私が愛だけになるには、
目をそらさずに あの十字架を
見続けること。 あの痛みと死への恐怖
いつでも怨むことも 憎むこともできる
状態で それでありながら 愛している。
私に微笑んでいる。



神だけだから
愛だけだから できることだ

人は愛になれると、
人と自分の 間違いに傷つきながら
許している。


あの十字架を
私は 愛する。





あの血と光は
私にとって同じ痛み

この痛みで 死ねばいい
この光に 焼かれればいい

何もかも消える程に
焼かれてしまえば

私は許される ような
気がする。


愛を受けとめ、大きくして
与えていける 存在に
なれる 気がする。

愛だけになれば 愛されることを
恐れなくていい




生きていてもいいと
ずっと 受けとめていると
本当の声が聞きたい。

許されていると
何も恐れなくてもいいと












それでも 愛している。
それでも 愛されている。

傷がひどければ ひどい程、
もう 動けないと
思わされる ほど
私の力では何もできないと


痛みと喜びを いつも
感じ続けていられるように。

苦しみを恐れずに
受け入れられるように、
それさえも喜びに変わるのだと、
私は知っています。




生きることも
死ぬことも

神のためで
ありますように。

喜びも 悲しみも
幸せも 苦しみも
誤解も間違いも痛みも

全て

神のためで
ありますように。

私を真理に導いてくれている
神に感謝します。





心の闇も
光の全く見えない
冷たい心も、

何もかも どこに
何を価値があると
思えばいいのかさえ
わからない 迷いの
中にいる心を、

本当は光がそこに
刺し込むことを

知り得ますように。

知り得ますように。




消えない炎
やまない光と声
微笑みと 
マグマ










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