先日のイベントで知り合った人から

私の話を色々聞いてくれて、ヒントになると
その人が集めていた智恵の言葉をシェアして下さいました。

さっきその大事なデータをうっかり消す、という事件が起こり、
(復元できましたが)これはアカンと思い、データを残す意味でも
こちらに載せておこうとおもいました。



(問題があれば消します(>_<))

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マスターゲート エックハルト

あなたを深刻にするのはあなた自身
あなたを縛るのも解放するのもあなた自身
苦しみを作りそれを捕まえているのも自分
自分以外見ない
外にエネルギーを使うから病気にもなる
宇宙に一つしかない自分は誰とも比較できない
比較から劣等感が起こる
不満足も他人との比較からくる
他人を見ず世界に只一人だけの自分を見るならば不満はありえない
不足感 自分が作っている
過去現在未来も自分が作る

悟りという言葉 単語 観念 イメージに囚われない
自らを言葉で規定しない

誰がそう考えてるか?
誰がその概念を作っている?

他人にこだわっているのはまだ自分自身にこだわりがあること

修行中の修行は考えにこだわらないこと

悟りを追い求めている自分を見てください。それがまさに悟りを開く鍵です

障害は本人が作ったものだから本人がなくせば済むことです

全ての怒り混乱ストレスはプライドから生まれます。私は賢いと主張するから反論に出くわしてもどかしさを感じ賢さがされると怒りが生じるわけです。それを注意して見てください。

この世で一番愚かな人は未来を心配する人です。そうするとそれが創造されます。

エックハルト
思考は強迫的に決めつける性質がある
判断決めつけをすることは既にあるものに抵抗すること

今既にあるものに抵抗せず、現状あるがままを受け入れる

無意識に振る舞う他人のエゴに反応せず、それを相手の本当の姿と捉えず、それを受け入れ自分の意識を今にフォーカスする
エゴの挑発に乗らず反応しないこと

相手を非難せず自分の思いを率直に述べる、自分を正当化せず広い心で相手の話に耳を傾ける

無意識に生きるとやがて思考や感情に飲み込まれる

何か不愉快な感情や思考に飲み込まれた場合はその内側に渦巻くエネルギー、またそれが自分にどういう影響を及ぼすかをじっと観察する。

無限である事を現実として感じるには
思考から引き出された自己認識を捨ててください。それが第一歩です。
仏陀は言いました。自我は幻想である。
エスは言いました。汝を否定せよ。
とは偽りの自分に気づきなさいという事です。
限られた、自ら作り出した思考に制限された自分ではなく、今にいなさい。それは過去未来と一切関係ない。

自分は何者であるという考えは現実を否定する事になります。私たちが陥りやすい罠です。概念的な自己認識はストレスを産みます。何かと競うことがないので不安は存在しません。思考が作った自己認識を捨てる事が出来れば目覚める事ができます。

今はいつだって目標よりも重要です。
目標が今よりも重要になればそれは妄想でありあなたは自分を見失っています。

苦しみの度合いは自分がどれだけ、今この瞬間に抵抗しているかに比例している。これは同時に自分が思考とどれだけ一体化しているかのバロメーターにもなります。全ての痛みは究極的には幻であるという精神世界の教義がありますがこれはまさに真理です。

意識の全てを外界と思考に使わずインナーボディに向ける。
意識的な呼吸はそれだけで素晴らしい瞑想法である。苦しみのほとんどは自分が作っている。思考がこしらえている。それは既にそうあるものへの拒絶、無意識の抵抗です。
苦しみのバロメーターはどれ位今この瞬間に抵抗しているか、思考と一つになっているかでわかる。
全ての痛みは究極的には幻であるとは真理である
積もった感情的な痛みペインボディを観察しよう。病気や事故の殆どはペインボディが作っている。
思考の性質である決めつけを止め、すでにそうあるものを受け入れると思考に支配される事はなくなる。
相手を非難せずに自分の思いを率直に述べるのはとても大切な事、自分を正当化せず広い心でパートナーの話に耳を傾けるのも大切。
今にあると自己弁護、非難などエゴの出番がなくなる。自分だけでなく相手が表現できるスペースが必要

1人でいる時に自分自身と一緒にいて心地よくない人は、自分の不安を覆い隠すために人とのつながりを求めるようになる
思考がつくる二元性が無駄な混乱衝突問題を生む温床なのです。

悟りを開いた人は自分自身に対して決めつけをしない、憐れまない、憎まない、愛さない
、誇りに思ったりしない、保護し、防衛しなければならない自分自身がいない

「すでにそうあるもの」に抵抗するとネガティヴな感情を抱かずにいられない。ネガティヴ性はみな抵抗が原因。

自分の外側に心の平安を求めるのはやめましょう。外側を探す姿勢でいる限り心の平安の境地には達せません。今いる状態以外の状態を探してはなりません。それは無意識のうちに軋轢や抵抗を心に作り出す。平和でない状態もあるがまま受け入れるとそれは変わる。すでにそうあるものを受け入れると全ての瞬間は一つ残らず極上になります。これが悟りをひらくことです。

私たちがどんな未来を歩むかを決定する中心的な要素は「今、この瞬間」の意識の質です。それゆえポジティブな変化をもたらすのに私たちにできる一番重要な事は「手放すこと」です。それは奥深い知恵である。手放す時に受け入れなければならないのはあらゆる状況ではなく、今この瞬間というごく限られた部分だけでいい。

レッテルを貼るというのは物事に対してきめつけをする事です。決めつけがなければ抵抗やネガティヴな感情は一切湧き上がってきません。

すでにそうあるものに抵抗するとエゴは鎧を強め「全ては離ればなれである」という信念を強くします。すると自分の周りの世界が自らの存在をおびやかしていると思い、決めつけをするようになり、競争心や支配欲とともに他者を抑圧しなければならないという強迫観念が芽生える。抵抗により更に肉体も緊張してこわばりエネルギーは自由に流れなくなる。

私たちの中にある大いなる存在には手放す事をしなければ繋がれない。キリストはそれにつながることがあなたに必要なただ一つのことと表現しました。

ニューアース

自分は正しく他者は間違ってるという考えはエゴの代表的なパターン

他者のエゴに反応しないこと、それが
自分自身のエゴを乗り越えるだけでなく、人間の集団的なエゴを解体するためにもっとも有効な手段の一つである。反応しないとはゆるすことだ。エゴを通して全ての人間の核心、本質である正気を見抜くのだ。

誰かのエゴに対して強く反応するとそれは大抵自分の中にもあるが自分には見つけられないし、気付こうともしない。

エゴは気付かれるたびに衰えるだろう

怨恨は激しい否定的感情
誰かが私達にしたことを強迫的に考え続けたり頭の中や口に出し繰り返し物語る事によりいつまでも生々しいままでいる。怨みにより現在の出来事に対して見方が歪み目の前の人に対する言動に影響する

自分が正しいという思いほどエゴを強化するものはない。間違ってるとか欠陥があると判断される人や状況に対して、自分が倫理的に優越感を感じそれを通じて自らを強化する。

信じなさい、私は分かっているというとしたら既にエゴが介入している。エゴは私という簡単な言葉に隠れている。エゴは全てを個人的に受け止める、そこで防衛感情や怒りまでもが生じる。あなたは自分自身という幻想、心が創り出した自分の代替物を防衛しようとする。

あなたは自覚できるか、心が慌てて自らの立場を防御、正当化し相手を非難攻撃し、平和より自らが正しい方がいいと言う者が自らの中にいる事を。

エゴと気づきは共存できない。エゴから解放されるにはエゴに気づくことだけが必要。

思考ではなく気づきによってのみ事実と見解の違いを見分けられる。エゴはすぐ見解や視点を事実と混同する。

エゴの底流には不安がある。エゴはこの不安を一時的に紛らすのがせいぜい。

自分が倫理的に優位に立ったという想像でエゴを強化する。誰かに否定的判断をするとき
この優越感がある。誰かが自分より多く知ってたり持ってたりして劣等感を感じると、批判したりけなしたりして自らを強く見せようとする。

自分は偉大である、駄目であるという観念的自己意識はポジティブ、ネガティヴであろうと全てエゴである。優越感を感じていたいエゴの奥には劣等感への恐れがある

仏陀の教えの核心の一つは無我だった。イエスはあなた自身を捨てなさいと言ったのは自己という幻想を否定解体しなさいという意味だった。

教義、イデオロギー、規則、物語に共通してるのは思考で出来ている。思考はうまくいけば真理を指し示すが真理そのものではない。仏教は月を指す指は月ではないと言う。

何を相手に闘っても、闘えば相手はますます強くなり、あなたが抵抗するものはしつこく存在する。闘いは失敗するに決まってる。闘いは心の癖、そこで相手に勝っても、それよりも手強いか同じような敵を生み出す。

エゴの勘違いの一つに私は苦しむべきでないというのがある。それが更にあなたを苦しめる。苦しみには意識を向上させエゴを焼き尽くす崇高な目的がある。苦しみに抵抗するとそれは長引く。苦しみを受け入れ意識的に苦しむ事により変容のプロセスは加速する。

エゴは今に在る事を知らない。行動によっていつかは救われると思ってるがそうはならない。現代文明そのものが今に在る事に根ざしていない。無駄な行動の中で自らを失っている。

自分も他人をも定義するのを止めよう。
そうすれば生命を回復する。他人による自分に対する定義も気にしなくて良い。定義する人は自らを制限しているのだから。

形的にはあなたは誰かより劣ったり優れたりしているが、本質は劣っても優れてもいない。それを認識した時に真の自尊心と慎み深さが生まれる。

エゴは分離を創り、分離は苦しみを創りだす。エゴは明らかに病的だ。怒り憎悪苛立ちうんざり神経質は不幸を創りだす。それが多くの人の日常だ。それに気づく為には絶対的に今に在る必要がある。そうすれば心の支配から解放される。

あなたが今安らかな気持ちになれない理由をエゴはあなたを説得する為に物語を創りだす。いつかの将来こうなれば、あれが起これば、あれが得られれば私は安らかになる。又は過去にこんな事があったから、あなたがこんな事をしたから、しなかったから、言ったから私は安らかな気持ちになれない。人々の物語はどうして私は今安らかな気持ちになれないかというストーリーだ。エゴはあなたが安らかになれるチャンスは今しかない事を知らない。又は知っていてもそれをあなたに気付かれるのを恐れている。安らぎはエゴの終わりだからだ。

エゴはどんな現実でも恨むのが大好きだ。
あるがままの現実に抵抗するのはエゴの特徴だ。そしてエゴは肥え太り大好きな不幸を生み出す。そうやって自分や他人を苦しめ地上に地獄を創りだす。それは無意識的に生きている完全にエゴに囚われた生き方だ。
それを自分は気づいていない。イエスは言った彼らをお許しください。彼らは自分で何をしてるかわかっていないのです。

思考から気づきへの変化が起こるとエゴの小賢しさよりはるかに偉大な知性が人生に働き始める。気づきによって感情や思考さえもそれが本来個人的なものでない事が分かってくる。もうそこに自己はない。ただの人間的な思考と感情だ。あなたが生きてきた個人的な物語と同様、その重要性は二の次になり意識の前面を占領する事はない。

あなたの中のエゴが強ければ強いほど人生でぶつかる問題は誰か他人のせいだと思うはずだ。それに周りの人々に生き難い思いをさせているだろう。もちろんあなたはそれに気づけない。いつも苦しめられてるのは自分だと考えるからだ。

個人や国家、集団が無意識であるほどエゴの病理が暴力の形をとる。相手との見解が異なると自らの思考が作り上げた見解というものを自己と同一化して、それを擁護して果ては自己の存在をかけた闘いになる。怒り、動揺し、荒れ狂い、どんな犠牲を払ってでも勝たないと自分は滅びると勘違いして攻撃する。
それは妄想である。禅は真理を求めるなただ思念を捨てよと言った。これは心との同一化を止めようという意味だ。エゴは観察されていない精神だ。

今自分がしている事と一つになれる人は新しい地を築く。

エゴは自分が他者を包み込むほど物事が円滑に進み仕事がやり易くなるのを知らない。

集団的なエゴは個人より無意識的で一人ではやらない残虐行為を平気でやる。個人なら即座に精神病と認定されるような行為を国家が実行するのは珍しくない。

あなたが今にあることを妨げる過去の出来事など何もない。だとしたら過去に一体どんな力があるというのか。

ネガティヴな感情が湧いた時にはきちんと向き合ってその正体を確認しておかないと感情が解消されずあとに痛みが残る。きちんと向き合い、受け入れそして手放すという作業がなされなかったネガティヴな感情は痛みを残す。それが積み重なり身体の全細胞で活動するエネルギー場を作り上げる。

ウェインダイアー
アメリカで1970年に処方された薬は20億錠
2007年には1130億錠になった。

偏見批判非難を神の子に向けてはならない。そうすれば望む人生を実現できる。

大事なのは正しくある事、勝つ事、人より優れている事ではなく、自分らしく生き、全ての瞬間、自らの素晴らしさを尊ぶ事が大切

人生の意味を端的に言えば自分の素晴らしさを尊び神の体現者として生きる事です。

私は次に出てくる言葉すら知りません。
完全に今に浸りきっているのです。
降参して抵抗するのをやめます。すると神が人生に入ってくるのです。

ヘンリーソローは言いました。夢に向かって自信を持って進めばそして想像した人生を生きる努力をすれば思いがけない成功を手にする事でしょう。成功があなたを追いかけます。



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