視点を変える(?)
裁かない、という視点は大事だと感じました。
とても良い内容だと思ったので、転載させて頂きました。
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教師でもある私にとって、夏休みは祈りの時と同時に、教育について
学習する貴重な時でもあります。今年の学習テーマは
「ゼロトレランスではない、子どもの幸せを追求する学校」です。
「ゼロトレランス zero- tolerance」とは、「トレランス tolerance(寛容)」が
「ゼロ zero(皆無)」という意味で「不寛容」と訳され、転じて「毅然とした対応」
と意訳されます。
子どもの問題行動に対する処罰基準を厳密に定め、規約違反にはそれを
問答無用(ゼロトレランス)に運用し、毅然とした対応をするのです。
2000年以降、全国の学校に次第に広まっています。「毅然とした対応」
と聞くと、何か小気味よい感じがしますが、実態は管理至上主義の、
子どもの幸せを少しも大事にしない恐ろしいものだと気づきます。
問題行動を繰り返す「困った子」は、実は「困っている子」なのです。
問題行動の背後には必ず原因があります。その子の成育歴、家庭や学校の
息苦しさなどに苦しむ子どものSOSの叫びが「問題行動」として現れます。
「困っている子」と一緒にその原因を見つけ、立ち向かい、解放への
道を歩んでいくことが教育です。それをせずに、「困った子」に、厳格な基準で
毅然として対応し、罰を与え、学校から排除してしまうとき、この学校は
「子どもの幸せを追求する」という使命を放棄してしまうのです。
「ゼロトレランス」は学校だけではなく、私たちの生活の様々な場面に
のさばっていきます。好き嫌いや、こうあるべきだという思い込み、
この世が大事にする価値観を基準にして、他者を決めつけ、排除する
という「毅然とした対応」がいつの間にか、まかりとおっていきます。
主イエス・キリストは、律法をゼロトレランスに運用する
ファリサイ派や律法学者と命をかけて対決しました。彼らは人々に、
律法を守らない「罪人」というレッテルを貼り、排除しました。
それに対し、イエスは罪人と一緒に、その人を罪人状態にしている
原因を見つけ、その人を救いへと導かれました。
自分が陥りやすいゼロトレランス傾向に気づき、キリスト者として、
また CLCを生きる者として、イエスのように、人々を神の国の幸いへと
解放する者でありたいと神に願った夏でした。
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